「賃上げしないと人が採れない。でも、どこまで上げれば持つのか分からない」
従業員20名を超えたあたりから、この相談が一気に増えます。そして多くの会社が、「上げるかどうか」で悩んだまま止まっています。
賃上げは決断ではなく設計です。上げられるかどうかは気合いではなく、粗利の構造で決まっている。この記事では、原資をどこから作るかを財務の順序で整理します。
賃上げが怖いのは、それが「不可逆な固定費」だから
最初に、経営者が本能的に感じている恐れを言語化しておきます。
基本給を上げる意思決定は、一度やったら戻せないという点で、設備投資より重い判断です。設備投資は最悪、売却も減損もできる。しかし基本給は、業績が落ちたからといって下げられません。しかも社会保険料や退職金の算定基礎にも効いてくるので、上げた額面以上の負担が長期にわたって乗ります。
会社が負担している人件費は、社員の手取りのおよそ1.5倍になります(この構造はこちらで解説しました)。つまり月3万円の賃上げは、会社にとって月4万5千円前後の恒久的な固定費増を意味します。従業員が増えるほど、この係数が効いてくる。
だから「世間が上げているから」で決めてはいけない。順序があります。
ステップ1:現在地を労働分配率で測る
賃上げの議論は、労働分配率=人件費 ÷ 粗利から始めます。売上ではなく粗利で見るのが肝心です。売上が伸びていても、外注や仕入が膨らんでいれば配れる原資は増えていません。
計算するときは、人件費の定義を必ず揃えてください。役員報酬・賞与・法定福利費・退職給付費用まで含めて初めて、実際の負担が見えます。ここを給与手当だけで計算すると、分配率を10ポイント近く過小評価することがあります。
| 業種 | 労働分配率の出発点の目安 |
|---|---|
| 製造業 | 50〜60% |
| 建設業 | 50〜60% |
| サービス業 | 40〜50% |
ただし、業種平均より重要なのは自社の3期推移です。同じ55%でも、50→52→55と上がってきた会社と、60→57→55と下げてきた会社では、次に打つ手がまったく違う。前者は放置すれば数年で危険水域に入りますし、後者は賃上げの余力が生まれつつあります。
ステップ2:全員に配ったときの着地を先に計算する
次にやるのは、賃上げ後の分配率シミュレーションです。「全員が満額の評価を得て、想定どおり昇給した場合、分配率は何%になるか」を先に出します。
これをやらずに制度や方針を発表してしまう会社が非常に多い。原資の裏付けがないまま期待だけを作ると、払えなかった年に信頼が一気に失われます。期待を作ってから裏切る仕組みほど、組織にダメージを与えるものはありません。
見るべきは3つの数字です。
- 現状の分配率——直近3期
- 賃上げ実施後の分配率——粗利が今と同じだった場合(最悪シナリオ)
- 目標分配率に戻すために必要な粗利成長率——「何%粗利を増やせば元に戻るか」
3つ目が実務上いちばん効きます。「来期、粗利を5%伸ばせればこの賃上げは吸収できる」と数字で言えれば、賃上げは博打ではなく計画になります。幹部への説明もここで一変します。
ステップ3:原資を作る4つの方法
では、その粗利成長をどう作るか。原資の作り方は大きく4つです。
| 方法 | 具体策 | 即効性 | 持続性 |
|---|---|---|---|
| ①粗利率を上げる | 値上げ、赤字取引の見直し、製品・工事ミックスの入れ替え | 高い | 高い |
| ②一人当たり粗利を上げる | 省人化投資、IT・自動化、多能工化、外注比率の見直し | 低い | 高い |
| ③固定費を組み替える | 人件費以外の固定費を削り、その分を人件費へ移す | 高い | 中 |
| ④配り方を変える | 一律ベアではなく賞与・手当・評価連動で変動費化する | 高い | 高い |
本筋は①です。とくに値上げは、賃上げ原資として最も直接的で、最も先送りされている打ち手です。年商10億の会社が粗利率を1ポイント改善すれば、それだけで相当の原資が生まれます。それでも多くの経営者が値上げを避けるのは、取引先を失う恐れがあるからですが、実際には赤字受注や採算割れの案件を抱えたまま賃上げする方がはるかに危険です。
そのためには、案件別・製品別・工事別の粗利が見えている必要があります。全社のPLだけを見ていると、どこで稼いでどこで損しているかが分からないため、値上げ交渉の的が絞れません。賃上げの前提は、管理会計の解像度です。
②は時間がかかりますが、人手が採れない時代には最も効く打ち手です。一人当たり粗利が上がれば、同じ分配率のままで一人当たりの給与を上げられます。省人化投資と賃上げはセットで設計するのが本来の形です。
ステップ4:配り方で「不可逆」を避ける
④の配り方は、リスク管理として重要なので分けて説明します。
同じ原資を配るのでも、基本給に乗せるか、賞与で出すか、手当で出すかで、会社が背負うリスクはまったく違います。
- 基本給(ベースアップ)——採用力と定着に最も効くが、完全に不可逆。社会保険料・残業単価・退職金にも波及する
- 賞与——業績連動にすれば変動費として扱える。粗利が伸びた年に厚く配れる
- 手当——目的を限定できる(資格・多能工・現場責任など)。要件を満たさなくなれば止められる
実務では、まず賞与原資で試し、粗利成長が確認できてから基本給に振り替えるという順序を勧めています。「今年の粗利がこれだけ伸びたので、賞与にこれだけ乗せます」を数年続けたうえで恒久化すれば、会社も社員も納得の土台ができます。
そして配分は、評価と接続させます。ただし接続は「遅く・薄く・透明に」が鉄則です。詳しい設計は人事評価制度の作り方にまとめました。
ステップ5:5年の粗利計画とセットで決める
ここまでを単年で考えると、毎年同じ議論を繰り返すことになります。本来、賃上げは5年の計画の一部です。
- 未来予想図——5年後、会社をどんな姿にしたいか(売上・人員・事業構成)
- 必要粗利——その姿を支えるのに必要な粗利額を、人件費・利益・借入返済から逆算する
- 必要な組織能力——その粗利を生むために、どの部門が何をできるようになる必要があるか
- 増やしたい行動——組織能力を、現場の具体的な行動に分解する
- 評価項目と処遇——その行動を評価項目にし、原資の範囲で処遇に接続する
この線が通ると、賃上げの説明が変わります。「世間が上げているから」ではなく、「5年後にこうなるために、この粗利が要る。だからこの行動を増やしたい。増えた分をこう配る」と言えるようになる。社員が納得するのは金額の大きさではなく、説明の一貫性です。
なお、財務数字は全社の共通の景色として開示し、個人の評価は行動で行う——という分離は守ってください。部門別の採算を個人の査定に直結させると、数字の取り合いや付け替えが始まり、せっかく作った管理会計の数字そのものが信用できなくなります。
やってはいけない3つ
- 世間相場だけで決める——自社の分配率を見ずに周囲に合わせると、粗利構造が違う会社の真似をすることになる
- シミュレーションなしで公表する——払えなかったときの信頼の毀損は、賃上げしなかった場合より大きい
- 「業績が悪くなれば戻せる」と考える——基本給は戻せない。戻せない前提で金額を決める
まとめ——賃上げは人事課題ではなく、財務の設計課題
賃上げの相談は人事の文脈で持ち込まれますが、実体は粗利構造と管理会計の話です。値上げができているか、案件別の採算が見えているか、一人当たり粗利が伸びているか——ここが動かないまま賃上げだけを進めると、数年後に分配率だけが上がった会社が残ります。
逆に、原資の作り方が設計できていれば、賃上げは採用力と定着に効く最も確実な投資になります。
自社の分配率がどの位置にあり、いくらまでなら持続可能か——実際の決算書をもとに整理したい方は、初回の無料相談でお聞かせください。
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この記事を書いた人
矢野誠(やの・まこと)|株式会社フエル代表・社外CFO。中小企業診断士・事業承継士。製薬大手で20年、財務管理の実務を経て独立。大阪を拠点に、年商10〜50億円規模の製造業・建設業・医業を中心に、資金調達戦略・事業承継・人事評価制度構築を支援。「会社の未来予想図を、数字で描く社外CFO」

